5.恋愛一方通行
七日がいなくなり、僕と眞は2人きりになった。七日がいなくなってから、眞は幾分か落ち着いたようだ。5月も終わりに近づくころには、だいぶ自然に話せるようになった。
はじめはずっと眞の顔を見ることができなかった僕も、なんとか彼女と平静に話すことができるようになった。
眞が七日にしたことは忘れてはいけない。
けれど、時は僕らの都合とは関係なしに過ぎていく。時間が急かす限り、立ち止まっていることはできないのだから。
僕たちは暗黙の了解で、あのゴールデンウィークの出来事は口に出さないようになった。 眞はずっと会社を休み続けている。
風邪、で誤魔化し続けるには、あまりにも期間が長すぎた。
事実上、眞はもう解雇になっていたけれど、辞表を出しにいった。
久々にスーツに身を包んだ眞は、以前より痩せこけてしまい、面影が変わってしまっている。
用事はすませ、家に着くなり、眞はソファーに寝転がった。
「本当に風邪、ひくぞ」
「それもいいかもしれない。そのまま直らずに死んじゃうの」
僕は眞を座らせ、隣に腰を下ろした。
「馬鹿。そういう刹那的な生き方はやめなさい」
「はーい。裄の言う通りにするから、冷蔵庫から缶ビール出して」
僕は言われるがまま、冷蔵庫へ向かう。庫内の扉側に2本のビールが入っている。そのうち1本だけを取り出そうとした時、背後から声がかかる。
「あ、裄も晩酌つき合ってよ」
「へいへい」
僕は残り1本のビールも取り出した。
程よく冷えた缶は、指先の熱を奪う。
もう一度ソファーに腰かけ、隣の眞に手渡した。
「どーぞ、お姫様。もう冷蔵庫には残ってないから、後から裄が飲まなきゃよかったのに、とか言うなよ」
「さんきゅ。部屋にワイン隠してるから大丈夫」
言葉とほぼ同時に、眞は指をプルトップにかけていた。
眞は相変わらず、酒に目がない。
僕は眞には気づかれないように、ビールを開けなかった。飲んだふりで誤魔化してしまうしかない。二日酔いはもうごめんだから。
「どうして、あんなことをしちゃったのか、本当にわからないの」
何の脈絡もなく眞はぽつりと語りだした。
すぐにあの時のことだというのは分かった。
僕はなるたけ平静を装って、へえ、とだけつぶやいた。どのみち、眞の耳には届いていなかったみたいだけれど。
眞は続ける。
「起きて、目の前にあった七日の顔が、何故かこの世で一番憎たらしく見えて」
眞は何もない空間の一点を凝視しながら言った。僕の方は決して振り向かず、淡々と。
けれど、肩が震えていた。
手がわなないていた。
僕は思わず、眞を抱きしめた。
ビールが零れたけれど、気にはならない。
抵抗はされなかった。
変わりに、眞は抑揚のない声で言う。
「苳のことも、こうやって抱きしめたの?」
僕は何も言えず、ただ手を解き、眞を解放した。今になって肩口にかかったビールが冷え冷えと染み渡る。
「わたし、知ってるんだ。七日には苳のこと、全部話してたんでしょ」
いつもならはぐらかしていた。
けれど僕は「そうだよ」と答えた。
「なんだか全部が全部疲れたよ」
眞はそう言うと、僕にもたれかかってそのまま眠ってしまった。
化粧気のない眞の顔は、とてもくたびれて見えた。
次の日、目覚めると、眞はソファーの上にいなかった。
部屋にもいなかった。
眞の部屋は綺麗に片付いていて、荷物は丸々運び出されている。あんなに多くの荷物がたった一晩で消えるはずがない。おそらく僕がいない間に少しずつ運び出されていたのだろう。今はただ、壊れた棚だけが残っている。
その側面に、広告の裏紙がセロハンテープで張りつけてあった。油性マジックの大きな字でたったの一文。
『しばらく旅行にでも行って、気分転換してくるよ』
笑みを浮かべて言う眞の姿が脳裏に浮かぶ。
その言葉が嘘だということを僕は知っていた。
僕は一人きりになった。
苳子も七日も、――眞もいない。
「……苳ちゃん、きれー」
溜め息を漏らすように、夢見る瞳で七日は呟いた。
久々に会った七日は、血色もよく随分活気がある。首にあった忌ま忌ましい痣ももう見る影もない。
「そうだな」
いい加減な返事をしたのがバレたらしい。七日は僕をキッと睨つけ、足を思い切り踏みつけてきた。
「ちょっと裄くん、あたしのことなんか見てないで、苳ちゃん見なくちゃ。今日の主役なんだから」
「はいはい」
適当に返し、七日のご要望の通り、苳子に視線を滑らせる。
今日は苳子の結婚式だ。
ちゃっかりと6月に式を上げるところが、なんとも苳子らしい。
「純白のウエディングドレスに身を包んだ苳子は、いつもより厚化粧でしたとさ」
僕はわざと声に出して感想を述べる。と、再び七日が足を踏みつけてきた。背が低い分足が届かないので、ほとんど椅子から降りている。
「ちょっと、そんなとこ見てどうすんの。ヤな人、そんなだから苳ちゃんにふられるの」
「痛いよ、七日」
実際はそんなに痛くなかったけれど、とりあえずマナー(?)として痛がっておく。
七日はより力をこめて踏みつけた後、ようやく満足したようで椅子によじ登った。
「鈍感な男はそれだけで罪なの。覚えておくことね」
「ななは川村くんには随分手厳しいね」
七日の隣に座っていた五月氏が、笑いを噛み殺しながら呟いた。五月氏は苳子とは直接面識はなかったものの、七日の付添いとして参加している。
「あら、パパだってそうだから。大体、パパはね……」
怒りの矛先は五月氏に移ったらしい。五月氏はしまったという表情を浮かべ、ひたすら愛想笑いをしている。
眞のことを抜きにして見た五月氏に、嫌な印象はもう無かった。結局僕の逆恨みでしかなかったのだろう。
何より七日に怒られている彼は、長年のブランクを感じさせず、ちゃんと彼女の父親に見えた。偽の父親である僕の出番はもうないらしい。
僕はもう一度苳子に視線を向ける。
七日に言った言葉は、僕の完全な負け惜しみにすぎない。
勿論ドレスも似合っていたし、何より仄かに赤く染まった頬が苳子の魅力を引き立てていた。
新郎はなかなかの男前なのだが、かなり禿げ上がっていて、苳子より随分年上に見える。けれど、実際には2歳しか違わないらしい。苳子が若いのか、はたまた新郎が老けているのか。まあ、苳子は随分と幸せなようなので、これ以上の考察はやめておく。逆恨みはもうこりごりだ。
相変わらず七日はお説教を続けている。始めはおとなしく話を聞いていた五月氏も、遂にはわざとらしく立ち上がり、いそいそと式場を出ていった。
「『なな、ごめん、急に仕事先から電話が来たみたいだ』、だって。見え透いた嘘なんて吐く必要ないのに」
呆れたように呟いた後、七日は正面を向いたまま、「ママ、来なかったね」と切り出した。
僕は彼女が何を言いたいのか分からず、彼女を見つめる。
どうしてか眞よりずっと大人びて見える横顔に、眞に対する怒りや憎しみの感情は全く無いように見えた。
「ママが、私の首を締める前の日にね」
七日は表情を変えずに淡々と続ける。
ママ、言ってたんだ。独り言みたく、ぶつぶつと。
『“一緒にいるから好き”だったら気が楽だったのに。ずっと好きで居て貰えるかなんて、考えなくて済んだのに』って。
どういう意味なんだろうね。
僕は七日の言葉に、茫然とするしかできなかった。
眞をそこまで追い詰めていたのは僕だったのか?!
僕はあの時、眞の問いに「好きだから一緒に居たい」と答えた。それが正しい答えだと思っていたし、本心だった。
でもおそらく、彼女は「一緒に居るから好き」と答えて欲しかったのだろう。
何でもいい。ずっと僕が眞だけを好きでいる保証と理由が欲しかったのだろう。
僕はずっと眞に嘘ばかり吐いてきたから。
眞を好きだといいながらも、苳子との関係を続けていたから。
――信用されなくて当たり前だ。
どうすれば、うまくいったんだ?
頭の中は自責の言葉で埋めつくされる。
僕は力まかせに自分の太股を抓り上げた。
「何、後悔してるかわかんないけど」
七日がゆっくりと言う声に、僕は顔を上げないまま耳を傾ける。
「後ろばっかり見てると、前に進めなくなるよ。辛くても、苦しくても、無理やりにでも、前、向いた方がいい。――あたしなら、すきなひとにそうしてて欲しい」
七日は僕をなぐさめるでもなく、むしろ冷たく言い放った。心底僕を軽蔑したという声色で。それが余計に彼女の母を思い出させた。
僕は「そうだな」と答え、顔を上げる。
脳裏に浮かんだ眞のイメージを消し去った。
もう、大切なものの大半は失ってしまったけれど。
それでも僕は生きていかなければならない。
end
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